第一章:テオティワカン文明とは

(テオティワカンの遺跡群)


1:太陽の神殿
2:月の神殿
3:ケツァルコアトルの神殿
4:ケツァルパパトルの宮殿
5:ジャガーの宮殿
6:羽毛のある貝殻の神殿
7:死者の大通り

第二章:テオティワカンの考古学的解析

1:テオティワカン文明の解析
2:テオティワカン文明繁栄のなぞ

添付資料

【テオティワカン遺跡を10倍楽しむマニュアル】

古代文明からの英知を自らの人生に生かす為の指南書

【テオティワカン文明とは】

テオティワカン文明とは何か? テオティワカン遺跡とは一体どのような存在であったのか?

これを一言で説明する事は難しい。何故なら、未だ、この巨大なセンターを治めていたのが一体誰であり、どのような統治をもって、メソアメリカ全体にその影響力を及ぼしていたのかが、まったく分かっておらず、更には、忽然と西暦900年までにはその影響力を衰退させている…という未だ解明されない大きな「謎」が残ったままになっているためです。

テオティワカン遺跡はマヤ文明のように文字を残しておらず、現状としては、これまでの発掘から得られたデータにより、この遺跡の存在を推察し、また、テオティワカンと関係の合った周辺の文明から発掘される発掘品や碑文に刻まれた記録により、外堀を埋める形で、本体を浮かび上がらせるという手法が取られています。

ただし、これまでに分かっていることは、この25平方キロの巨大都市には、最盛期には15万といわれる人口を擁し、1600km離れたマヤエリアとの交易、更には積極的な政治的軍事的な介入を繰り返しながら、文化面でも多大な影響力を及ぼしていたという点です。

そして、この巨大なセンターが、恐らくテオティワカン文明の中では宗教的な中心都市として、祭祀、交易、経済、生産とあらゆる機能を有していた綿密な都市計画に基づいて建設されたという点。また、社会階層が分かれ、政治システムも整っていたという点が特筆されます。

紀元前3世紀にはこのエリアで集落が形成された事は地層からわかっていますが、急速な発展を始めたのが西暦2〜3世紀にかけて、それ以降9世紀まで、マヤ文明にも多大な影響を与え続けたこの巨大遺跡の謎を追います。


テオティワカン遺跡とは?

テオティワカン遺跡とはBC200-AC650の間に、メキシコ中央高原に栄えた都市国家です。

当事のアメリカ大陸では1番の人口を誇り、世界でも6番目の巨大都市。


12世紀頃、メキシコ北部を起源とする先頭狩猟民族メシカと呼ばれる後のアステカ族の一団が、守護神ウイツィロポチトリから霊示された「サボテンの上に蛇をくわえた鷲がいる場所」を探し求めてメキシコ半島を南下していました。

中央高原までたどり着いた彼らはそこで、既に廃墟と化した巨大な遺跡群を発見します。想像を絶するほどの巨大都市遺跡に存在するピラミッドであったであろう二つの建造物を見た彼らは、そこが、かねてから伝説に語られてきた神々の住む都市であることを確信します。

その後、そこから50km離れた場所に、守護神の霊示された場所を見つけたメシカは、そこを帝都チノチテトランと定め、廃墟となった巨大な遺跡を、
神々が住む神聖な場所という意味の「テオティワカン」と呼び、後々まで崇拝の対象としました。スペインの記録でも、当事の王であったモクテスマが、テオティワカンに巡礼を繰り返していたことが書かれています。

因みに、アステカというのはスペイン人が、メシカ族やその周辺住民のナワトル語族を総称して名づけた言葉で、実際に彼らが自らをアステカと呼称していたわけではありません。なお、メシカという言葉が、MEXICOの語源になっている事は有名な話ですね。また、メキシコの国旗には、このアステカの守護神から霊示を受けたという、「サボテンの上に蛇をくわえた鷲」も描かれています。


テオティワカン遺跡の謎?!

この巨大な都市国家は、その成り立ちから謎に満ちています。

まず、この都市はその建設が始まった当初から綿密な都市計画に基づいて建設が進められているという点です。

通常、例えばマヤ遺跡では、何世紀もの時間をかけて都市の建設が進み、その都度エリアを拡大しながら、また、一部放棄をしながら、肥大化していく傾向があるのですが、こと、テオティワカンにいたっては、太陽の神殿が建設された西暦150年の時点で、明確な都市国家としてのプランに基づき整然とした都市が100年という短い期間に建設されているのです。

もちろん、太陽のピラミッドは7回にわけて増築されている事が分かっていますが、都市計画に基づき基礎を作り上げた上で、その後の建造物はこの計画に基づいて増改築がされているという点が非常に興味深い点です。


テオティワカン遺跡とは何だったのか?!


テオティワカン遺跡とは何だったのでしょうか? 少なくとも、この都市には、様々な人々が、その民族の隔てなく生活をしていた痕跡が残されています。マヤ族、ナワトル族やトトナカ族、タラスコ族、ワステカ族、オトミ族といった様々な部族がその居住区を構え、自らの生産した品やその土地からの交易品を取引していたと発掘品などからも分かっています。

そういう点ではこのテオティワカンというのは、単なる宗教上の儀礼都市ではなく商業都市としても機能していたと考えられます。

また、25平方キロに広がる都市の中心にある月のピラミッドから4kmの死者の道にそって建てられる神殿郡は全て漆喰で固められ赤く着色されていたといわれています。

この死者の道は、実際には雨季と乾季を知らせる季節予報であったと考えられており、雨季入りの雨で満たされた水が月の神殿から南へとこの死者の通りを流れ2km先にあるSAN JUAN川に注ぎ込むように作られていました。

つまり、死者の道は人工的に作られた水路であったという事になりますね。

後ほど各遺跡の部分で詳しく説明をしますが、太陽のピラミッドも、月のピラミッドも農耕暦と密接な関係を持っていることが分かっており、太陽の運行と、雨季入りと乾季入りの暦が一目で分かるように作られていたわけです(。


こうした農耕儀礼的な意味では宗教行事の祭祀センターとして、また他面では、各民族の経済的な交易の中心地として、テオティワカンは、当事のメソアメリカ文化圏の中では中心的な役割を担った都市であったという所か考えられています。


テオティワカン遺跡は何故衰退してしまったのか?!

25平方キロのエリアに生活する許容人数は10万といわれています。最盛期には15万とも20万とも言われる増え続ける人口に都市がパンク状態になり、その後紛争や間や地域でも広まっていく食糧難といった要因が複雑に重なり衰退をしていったのではないかと考えられています。

実際に故意に破壊され焼かれた事が認められるエリアなども発掘されています。

興味深いのは、このテオティワカンが衰退する時代は、マヤ文明の繁栄と崩壊とも重なっているという点です。

マヤ文明圏では、700年代に、広い範囲で食料戦争と考えられる各国間の戦争が頻発しています。その後の800年までに300近くあった大きな王朝が例外なく消滅していることからも、こうした環境の変化による生活を脅かすほどの影響がテオティワカンだけでなく、広い地域全体で起こっていたのは間違いありません。

推察としては、他国民族の経済的、宗教的な中心であったテオティワカンは、当事、マヤなど広い範囲で環境破壊による食糧難が問題となる中、大都市であるテオティワカンへの難民も含めた人口の流入が増大したものと思われます。

都市の許容を大幅に超える20万という人口の中、食料戦争が頻発する大きな商業圏でもあったマヤエリアとの交易がストップし、経済活動も停滞。そんな中、食料紛争が飛び火しないはずもなく、他国民族が暮らすテオティワカンであるが故の内紛により、衰退をして行ったのではないでしょうか。

マヤ文明とテオティワカン文明の大崩壊の後、トルテカ族が台頭していきます。このトルテカと関係のあったといわれるプトェンマヤ族が、遠く1600km離れたマヤの地にチチェンイッツァを建設するのは西暦900年のことです。


【注意】

さて、本解説書は、遺跡に詳しい方にも満足いただける詳しい解説を含んでおりますが、特に観光目的でテオティワカン遺跡を訪れ、軽い気持ちでその文明の真髄に触れたい…という方の為に、見所のガイドを初めの章で解説しております。その為、更に詳しい解説をご希望の方は、更に読み進んでいただくことで、この奥深いテオティワカン文明の真髄に触れていただけるようになっております。

未だ様々な論証が続くテオティワカン遺跡ですが、今この遺跡に直に触れている事に巡り合わせの不可思議さを思いながら、この偉大な人類の遺物の意味をじっくり肌で感じとって頂きたいと思います。



第一章:テオティワカン遺跡の見所解説
【太陽の神殿】

1987年にユネスコの世界遺産に指定されたテオティワカン遺跡ですが、その謎の多さに比例してその大きさと緻密さから、この遺跡の一番の見所となっています。

登頂が出来るピラミッドでは世界最大

頂上の頂点に触れましょう!ここは、数多くの著名人が願掛けをして夢が実現したといわれているパワースポットになっています(一例/小泉元首相は、総裁選の前、ここに触れて願掛けをしたそうですよ(笑))

★一般情報★

世界第三位の高さを誇る人口ピラミッド(一位はエジプトのギザ、二位はプエプラのチョルーラ)

建設年代AD150年

高さ65 m、底辺222 m×225 、7層からなるピラミッドには正面東側に階段が設けられ、最上階には恐らく聖堂
が建てられていたと考えられています。階段の数は248段。名実共に世界ナンバー3の巨大ピラミッドです。


★もう少し詳しい情報★

5
層に修復されている現在のピラミッド。実はその後の衛星解析により実際は4層であった事が分かっています。

1905年メキシコ人考古学者、パドレスがメキシコの文化遺産を世界に示し、メキシコの国家威信を目的とする大修復の責任者に任命された際に、彼の思い込みが、実際は4層のピラミッドを5層に作り変えさせてしまったという皮肉ですが、我々もしっかりとこうした思い込みによるミスには気をつけたいものですね。

付け足されてしまった場所はさて何段目でしょうか?!

そして、
このピラミッドは東方向へ15度30分ずれて建てられています。

つまり、この西側の正面は、4月29日と8月12日に太陽が沈む方角を指しているということ。更に、北緯19.5度に位置するテオティワカン遺跡は、この4月29日と8月12日の正午に太陽がピラミッドの真上にくるように建てられています。




★★更に更に!詳しい情報★★ このピラミッドの建設年代は西暦150年の何故!

このピラミッドはテオティワカンの地層年代ではツァクアリ期(紀元100年〜150年)に当たっているのですが、恐らく、西暦150年に建設されたと考えられています。

その理由は、紀元150年の4月29日と8月12日の天体図を解析した結果、正午に太陽がピラミッドの頂点を通過するその日の明け方には、太陽を先導するかのように、プレアデス星が昇って来ることが分かったためです(これは天文学の世界では、HELIACAL RISING (ヘライアカル・ライジング)と言われます)

西暦150年4月29日(8月12日)の夜明け、おうし座プレアデス星に先導されるように太陽が昇る。そして、正午にこのピラミッドの真上を通過した後、ピラミッド西側正面に太陽が沈んでいく。。。

これは偶然ではありません。


特殊な単位から導き出されるこのピラミッドの目的とは

更に、テオティワカン遺跡には独特な測量尺度が使われており、一般に「テオティワカン標準単位(Standard Teotihuacan Unit)略してSTUという尺度が使われます。これは、9000箇所に及ぶ測量の結果、日本人考古学者である杉山三郎氏が導き出したもので、一単位83cmとなっています。

この単位を使って太陽のピラミッドの一辺を図ると222/83=267STU〜225/83=271STUとなります。これは、この
テオティワカンがある乾季の時期の長さに合致します

つまり、8月12日の雨季明けから次の雨季入りである4月29日までの日数にあわせているという事になるわけですね。

当事の古代社会は農耕社会の為、播種の時期となる雨季入りの時期というのは、とても重要でしたので、こうした宗教行事と重なる暦というものが、建物の建築にもかなり意識されていた事が分かるわけです。




★★★ガイドも知らないマニアックな情報★★★ もっとある! 太陽のピラミッドの脅威!!


【テオティワカン標準単位である83cmのこの数字。。。実は、とても神秘的な数字です】


■1gの温度を1度高める為に必要なエネルギーを比熱といいます。水の比熱は4.217ですが、人間の比熱は0.83です。

■スペインの古い長さの単位「VARA」は
1vara=83.59cm

■木星の「衝」(太陽と地球が一直線に並ぶ日)は、
地球の公転83周期ごとになっています。

※木星の
公転周期は4332.3386日ですが、その衝は7木星公転周期30326.37日ごとにやってきます。つもり地球の83公転周期30315.103日にほぼ等しい(誤差11.267日)

ユダヤ教では、83歳が日本でいう還暦(バル・ミツバ)を行います。13歳に男子が行う元服の事です。

83は連続する5つの素数の和(11+13+17+19+23)及び連続する3つの素数の和(23+29+31)で表すことのできる素数

時速300kmの秒速は83m




【テオティワカンは地球の縮図!!】


高さ65mと言われているこのピラミッドですが、実際は、基台の上に乗っているため、地上高は71.17m、土台の周囲の長さは893.91mとなっています。

この数字が何を意味するか。。

71.17に円周率の4πを掛けるとどうなるか。。。

71.17 * 4 * 3.14 = 893.8952 ...

ほぼ全周の長さと同じになるのです。。。地球の縮図をピラミッドの4面で再現したのがこのピラミッドでもある。。。将に地球の縮図になっているのです。。。



★見学の要(かなめ)解説★

このピラミッドは現在登頂する事が出来る中では世界一の高さを誇っています。

地上高71.17mの頂点にあるパワーストーンに、是非触って、このテオティワカン文明の英知に触れ、エネルギーを充電しましょう!



★テオティワカン文明における儀式の位置づけ★

テオティワカンの世界は王が=神という図式ではなかったと考えられています。神というのはこの世の別の世界に存在しており、その神がこの世の中の災いや自然の運行などを全て取り仕切っているため、その神への民の願いを取り次ぐことが出来る中間的な存在として、王が存在していたと考えられています。このあたりの成り立ちはマヤ文明も同じです。

つまり、農耕儀礼が非常に重要であったという事です。。

ピラミッドが天体の周期、太陽の運行、そして、自然のサイクルに忠実に作られているのはその為であり、このピラミッドを通じて、このテオティワカンの王が、自らの能力の証として、民の願いや祈りを神に伝えることで、威信を保っていたと考えられています。

つまり、王はいなかったと良く言われますが、確実に存在していたというのが、考古学会の現在の立場です。

実際、ケツァルコアトルの神殿の地下では2009年に、更に、2017年には月のピラミッドの地下にもトンネルが発見され、棺も発見されています。この棺が一体誰のものなのか。。。高貴な王は火葬された事を証明するかのように棺からは炭化した異物が確認されています。

このあたりは、今後の調査を待つことになりますが、階層化された社会であるが故にリーダー的な人物は不可欠であった事は間違いなく、こうした発達した知識をもった人物とそして、都市に人口があつまり、都市が肥大化して行ったと考えられています。


■見学のポイント:

テオティワカン文明は謎が多い遺跡ですが、決して神秘的な呪術的、原始的な文明であったわけではなく、王は儀式を通じて、その高度な天文学の知識を駆使し、民を正しい方向へと導いていた姿を思い浮かべながら見学をしてください。

人が王権を認知するという事は、自らの決定権を委任するという事です。決して、武力による恐怖政治ではない、その好くするところに人が集まった結果として、15万人、一説には20万という、世界でも最も繁栄した都市として栄華を、少なくとも600年という長い時間にわたって保ち続ける事が出来たという事を、頭の片隅に入れながら見学をしてください。

因みに、当事のヨーロッパでもコンスタンチノープルが唯一2万人を超える人口があった都市であったことを考えれば、このテオティワカンがいかに巨大な都市であったかが分かるかと思います。


【月の神殿】


■一辺168m、高さ46mの左右完全対象ピラミッド。

テオティワカン遺跡では二番目の大きさ

建設が完成したのはAD200-AD250と考えられているが、ピラミッドそのもののベースは、太陽の神殿よりも以前に建設がされた事が分かっています。

■テオティワカンでは恐らく最初に建造されたピラミッドで、過去に6回の増築が行われている事がわかっています。

★一般情報★

「月のピラミッド」や「太陽のピラミッド」という呼称は、後にこの地を発見したアステカ族が、自らの神話の中に登場する物語の中から名づけたもので、実際に、テオティワカンの時代に何と呼ばれていたのか、それは「死者の道」も含めてまったく分かっていない。

完全なBilateral symmetry」つまり、左右完全対象の建造物となっている。

ピラミッドの頂点には神殿があったと考えられており、そこでは、水の神、大地の神、豊穣の神、そして、創造の神である大女神を祭る儀式が行われていたという。

1998年の発掘で、月のピラミッドは少なくとも6層の構造になっていることが発見されている(つまり、6期の増築工事が繰り返されたという事)

1999年に杉山三郎教授の主導の下、5層目の場所にて墓室が発見される。4体の遺骨、動物の骨、黒曜石やヒスイなどの様々な宝石が発掘される。西暦100年〜200年ごろのものと思われる。

1998年にも4層目にて墓室が発見されている。男性の人身供犠による遺骨が一体のほか、ジャガー、ピューマ、オオカミ、ボア、ケツァル鳥の骨が発掘されている。その他、400点に上る、黒曜石、ヒスイ、石器、儀式用ナイフなども出土している。

こうした事からも、テオティワカンではもっとも重要な神殿の一つであったと考えられている。


★偉大なるテオティワカンの神を祭る神殿★

アステカによると巨大な月の神が神殿に祭られていると伝承に伝わるが、実際に、月のヒラミッドの頂上には大女神「テオティワカンのクモの女王が埋められており、こちらは発掘はされていないが、重さ22トンもの巨石である事が分かっています。

この大女神の後継が後のアステカの神話にも登場する水の女神である「チャルチウトリクェの女神」であると考えられています。この神のの手からは水が流れ落ち、豊穣と妊娠を象徴していると考えられています。

左の写真は人類学博物館に所蔵されている大女神(一部、この神がアステカの水の神(Chalchiuhtlicue)と混同されていますが、これは月のピラミッドの基礎近くで発見された大女神ですので間違えないように)


★テオティワカンの大女神は全ての神の母★

大女神(Great Goddess)と呼ばれる神の存在が、テオティワカンでは壁画などでも出てきます。ケツアル鳥の羽をもった冠をかぶり、鉤鼻をもった図象は、当初は雨神のトラロックと考えられていましたが、その後の解析と研究により、豊穣の大女神だと現在は考えられています。

多種多様な民族が生活をしていたテオティワカンにおける大いなる母の象徴として、統一神としてあがめられた女神が祭られているわけですね。

Tetitla 宮殿にある壁画。トラロックではありません。
なお、この大女神は、テオティワカン以外には確認されていません。テオティワカン特有の唯一絶対神であったと考えられています。その後、水の女神であるチャルチウィトリクエの女神へと分化され、更に、アステカの時代に、この大女神から、戦いの側面が特化した太陽と戦いの神であり、最高神であるウィツロポチテリ(Huitzilopochtli)が想像されたと考えられています。

なお、水の神であるチャルチウィトリクエの女神は、トラロックの妻と考えられていますが、その後、次第に水の神はトラロックに集約されて同一化していきます。細かく説明すると、トラロックは天井から降る恵の雨を示し、チャルチウィトリクエは既に地上に存在している水をつかさどる神として分けてあがめられていた神です。

アステカのテンプロマヨール神殿は二つの神殿が建てられていましたが、その一つは雨神トラロックを祭り、もう一つの神殿は太陽と戦いの神であるウィツロポチテリを祭っていたことからも、トラロックの中に同化された水神であるチャルチウィトリクエと共に、起源を辿れば、二つの神もまた、このテオティワカンの大女神から想像された神であるという事になるわけです。

特徴としては、長い長方形の鉤鼻には三つの輪、三本から五本の牙を持ち、内側の牙が下を向き、外側の牙は上を向いている。頭にはふくろうもしくは、ケツァル鳥の冠をつけ、赤と黄色で彩られる。

こうした女神への信仰は、その後のメキシコ独自の信仰でもあるマリア・グァダルーペの母神の信仰へと続いていると考える研究者もいます。

テオティワカンの大女神は、クモ、ふくろう、ジャガーを象徴的に描かれていますが、これらは全て洞窟や夜、暗黒の地下世界を象徴した生き物である為、こうした姿を象徴的に描かれている大女神は地下世界とのつながりを示していると考えられています。

この為、この大女神は、大地、水、戦争、暗黒といった全ての創造の神であると考えられているわけです。

アステカとの決定的な違いとしては、この大女神の目的は、地球上の楽園の創造の創造であったのに対して、アステカの女神は、破壊と戦争の勝利、そして、宇宙の崩壊という側面がクローズアップされている点であると指摘する学者もいます。

★更に詳しい情報★ 謎のテオティワカン・クロスとは何か?!

月のピラミッドの前には、今では有名な「テオティワカン・クロス」と呼ばれる基台が置かれています。クロス・サークルと呼ばれるもので、メソアメリカ文化圏では比較的目にする事が出来る謎のモチーフです。

クロスサークルそのものは、プレコロンビア期の狩猟民族の洞窟遺跡からも発見されていますが、その目的は何であったのかはいまだに謎のままとなっています。

ただし、これまでの研究により、いくつかの定義がなされ、今では複合的な目的をもったものであったと考えられています。

特に、外部に設置されたものは、天体観測と強い関係があったと考えられており、山の頂上や地域ではもっとも高い場所の頂点から発見されたものについては、測量に利用されたと考えられ、また、アルタビスタなど、テオティワカンの天体観測所と考えられた場所から発見されているクロスサークルについては、東西のクロスが北回帰線と一致していたり、太陽の天頂通過点を示していたりと、天体観測にも強い関係があったと考えられています。

また、点線で描かれたクロスについては、365個の穴があいており、その穴には黒曜石などの石を入れることが出来るようになっていたことから、太陽暦との関係なども指摘されています。

こうしたことから、月のピラミッドの広場に置かれた基台のテオティワカンクロスについては、宇宙の中心と、天上階と地上界という宇宙観を象徴したものとして、儀式と関係があったのではないかと考えられています。



★★★ガイドも知らないマニアックな情報★★★ もっとある! 月のピラミッドの謎!!


■過去7回に分けて増築が繰り返された月の神殿だが、5期目の神殿部分からこれまでテオティワカンでは発掘された事のない、見事な副葬品に包まれた3体の遺骨が、日本の杉山教授により発掘されています。

しかも、この被葬者の副葬品は、マヤ地域の王族関係者である事を思わせるマヤの副葬品であったことから、一体、これが誰で時のテオティワカンとどのような関係があったのか、、、研究結果が待たれています。



★見学のポイント★ 月のピラミッドから広がるテオティワカン文明の威信を想像しましょう!

この月のピラミッドとその前に広がる月の広場は、雨季に入るとなみなみと水を湛えるプールのようになったと考えられています。

4月29日の雨季入りになると、もたらされた雨により月の広場に水が満ち溢れ、そして、現在では死者の道と呼ばれる回廊を流れて、2km先にあるサン・ファン川に流れ込んでいくという構図になっていたと考えられています。

実際に、月の広場も含め、死者の道のところどころに、排水溝と見られる遺構が発見されています。

太陽の神殿に太陽が天頂する4月29日。。。同時に、水の女神チャルチウィトリクエの前身でもあり、テオティワカンの絶対神である大女神に雨と豊穣を祈る儀式を捧げる。これが暦の上での雨季入りのサインとなります。

まもなく雨季入りの恵の雨が降り注ぐと、雨水が月の広場に満たされ、死者の道を流れおち、、、サンファン川へと注ぎこむ。。。壮大な儀式の集大成がここに完結するわけです。

その結果、人々が神の意思に触れ、その力にひれ伏し、王の威信が増す。多種多様な民族のモザイクでもあったテオティワカンから、様々な地域へその民族の枠を超えてテオティワカンの偉大さが伝聞する。

その結果としてテオティワカンの威信が高まり、メソアメリカ文化圏におけるテオティワカンの存在意義が確立していく。この遺跡がなぜ、多大な文明に影響を与えたのか、、、それは、こうした都市構造と、この地に生活する多数の民族の縮図からもたらされた当然の帰結だったのかもしれません。

壮大な都市計画の下に、建設されたテオティワカンの都市。そして、月の神殿から発掘される神の姿。。。こうした部分を想像しながら、時の権力者が見ていた世界を、是非月のピラミッドから眺める景色に重ねてみてください


【ケツァルコアトルの神殿】

■テオティワカンでは3番目の大きさを誇る

■高さ7mの城壁に囲まれたシウダデーラという城塞エリアに建つ神殿。

■シウダデーラの広さは16Ha、10万人収容が可能。

■ケツァルコアトルの神殿は、一辺65m*高さ22m

★一般情報★

■シウダデーラという城塞の中に建設された、テオティワカンの神である雨神トラロックと羽毛の蛇であり文科と農耕の神であるケツアァルコアトルを祭った神殿

※羽毛のヘビであるケツァルコアトルについては間違いないが、もう一つの神については、雨神や戦争の神であるなど、トラロック神以外であるとの主張もあり、確定していない

この神殿が儀式暦である260日を意識した作りであることから、この儀式暦に関連し、時の神であるCIPACTLI(シパクトリ神)のワニの頭飾りであるとし、時間の起源神話に捧げられたものとする説も根強い。

■典型的な北部様式であるタルータブレロ様式で建設されている。これは、垂直方向を意識する太陽や月の神殿とは対極的に水平性を意識した作りである事を示している。

■6層からなっている。

■建設されたのは、シウダデーラ(城塞)が建設されるずっと以前の紀元前後と考えられている。

■ピラミッドの後ろに広がる広大な敷地に建設された2棟の建造物は支配者が生活をした宮殿であると考えられている。

■また、このピラミッドは、300年〜400年頃、意図的にそとからは見えないようにアドサドプラットフォームが前面に建設されており、覆い隠す目的があったものと推察されている。

■前面に広がる広場には10万人を収容出来た。

■2003年に地下15mの場所に人工的に彫られたトンネルが発見され、2009年よりの発掘により103mの長さがあること、終点となる十字のクロスポイントは、ケツァルコアトル神殿のちょうど中心と一致していること、4万点に上る遺品が発掘された事などで注目を集めた(こちらの動画は以下よりどうぞ)

■過去に15mの層には水が満たされていたことも分かっています。当事、トンネルには水が満ちていた可能性が高いという事です。大量の巻貝、ヒスイの彫像、水、、、水銀、そして、太陽に捧げる儀式であるボール球技で使用されたゴムボール。。。こうした一連の流れは、この神殿が明確な儀式の目的をもって建てられていることを示しています。

■2014年7月。地下トンネルのクロスサークルから木棺が発見されています。当事の王は火葬されたと伝えられており、灰が確認されているという事ですので、王の棺かもしれないと注目を集めています。


★★★更に詳しい情報★★★ ケツァルコアトルの神殿の謎を解明!!

【神殿の謎その1】 ケツァルコアトルの神殿は埋葬の神殿だったのか?!

200体の埋葬が示すもの。。。

この神殿からは200体以上の人身供犠によるものと思われる遺骨が発掘されている(男女共に発掘されているが、男性のものが多い)

身に付けていた装身具や発掘された遺品から多くは戦士、しかも、正規軍ではない傭兵であったと推察されている。ピラミッドの中心に至るにつれてその数が増えている。

この遺骨には3種類の階層が確認されている。

10代で副葬品のない層、戦士の装身具をつけた層、黒曜石など宝石と共に埋葬された貴族階級の層で、中央に行くほど階層が上がるように埋葬されています。

また、被葬者のほとんどは後ろでに縛られて埋葬されているため、恐らく強制的な人身供犠によると考えられている。

更に、埋葬は、マヤの暦に関係する「4,9,13,18,20」といった数字にあわせてグループ分けされており、こうした点からも、ラテンアメリカの世界観を体現したものであると考えられている。


【神殿の謎その2】ケツァルコアトルの神殿は農耕カレンダーだったのか?!

260個のケツァルコアトルの頭が示すもの。。。


ケツァルコアトルの神殿には全部で260個のケツァルコアトルの頭が設置されているが、個の数字が農耕暦、月の暦であることは想像に難くない。

また、ケツァルコアトルの口はモノを差し込む事がで出来るように開けられており、恐らく、日によってその位置を移動させ、大きなカレンダーとしての役割も持っていたのではないかと考えられている。

これと関連して、もう一つの現在トラロックと考えられている神が、実は時をつかさどるシパクトリ神であるという説も有力である。


【神殿の謎その3】ケツァルコアトルの神殿は有力支配者の政変を物語っている?!

神殿を覆い尽くすアドサダプラットフォームの示すもの。。。

紀元前後というテオティワカン黎明期に建設されたケツァルコアトルの神殿は、その当初より宗教的な儀式の中心であるだけでなく、更に、政治的に重要な人物の居城としても機能していたと考えられています。

また、ケツァルコアトルの神殿前に建てられているADOSADAプラットフォームは、ケツァル神殿よりかなり後の時代に建設された事が分かっており、このピラミッドを直接見ることが出来ないように覆い囲む目的があったと考えられています。


覆い隠すという事は、何かしらの目的があったと考えられるわけですが、実際、テオティワカンでは紀元4世紀にケツァルコアトルを信望するグループが、政変により失脚し国を追われています。その際に、ケツァルコアトルの神殿を新たな支配者が覆い隠したのでしょうか?!

実際、興味深いことに、西暦378年1月31日、ケツァルコアトルをあがめるテオティワカンの戦士集団が南はグァテマラのマヤのセンターであるティカル(当事は、ムタルと呼ばれた)に侵攻し、テオティワカンの西の王(オチキン・カロムテ)であるシヤフカックにより、当事のティカルの王チャク・トゥク・イチャック1世が処刑されます。このシヤフカックの後見を得て、シュ・ニュ・アイーン1世が379年9月に王位に付くという政変が1000kmも離れた場所で発生しているのです。

この後、ティカルはテオティワカンの影響が色濃い時代が5世紀後半まで続きます。。。

こうした史実と、このアドサダプラットフォームの存在はリンクするのでしょうか?!



【神殿の謎その4】ケツァルコアトルの神殿は、太陽再生の巨大装置であったのか?!

2003年に発見され2009年より発掘が続くトンネルの指揮をとるゴメス氏の壮大な仮説が非常に興味深い!

INAHの映像による、城塞の地下に発見されたトンネル内部の映像。2003年、15mの地下に103mの長さのトンネルが発見されました。発掘が開始されたのは2009年ですが、ちょうどピラミッドの中心直下で十字の空間が作られた場所で終わっています。

総点数4万点に上る発掘品が発見されています。

地下信仰と、クロスサークルの関係がここにも見え隠れします。

Tepantitla という宮殿に描かれる「トラロックの天国」と言われる壁画。

山の中腹から水が満ち溢れそれは地下世界へと流れ込んでいる。

テオティワカンの神話では、地下は水で満たされ死者が住む冥界が存在する。そこは同時に沈んだ太陽が蘇る再生の場でもある。マヤにもあるシバルバの世界と同様、人々は沈んだ太陽が再び昇ってくるよう祈っていた。

沈む太陽が水で満たされた地下世界を抜け再生をする。その世界観を描いた図柄が、このテパンティトラ宮殿に描かれた壁画です。

ケツァルコアトルの神殿地下に発見されたトンネルはピラミッドから見ると真っ直ぐ西へ伸びている。

大地に沈む太陽はトンネルの入り口から地下世界に入り冥界を通って蘇りピラミッドの頂上から再び姿を現す。

トンネルとピラミッドは一体となって太陽再生の壮大な装置だったという仮説です。

【見学のポイント】今もっとも熱い視線が注がれているエリアで歴史のロマンを追いましょう

シウダデーラ及び、ケツァルコアトルの神殿は、テオティワカンではあまり解説がされる事がありません。観光客の多くは、月と太陽のピラミッドに気をとられてしまい、こちらの神殿の見学をしないというケースもあります。

しかし、テオティワカンを語る上で、この神殿ほど、歴史のロマンを秘め、テオティワカンの謎を解く鍵を持ち、興味深い史実、宗教や世界観、テオティワカン文明の奥深さを知ることが出来る遺跡はありません。

テオティワカンに来たら、まず、ケツァルコアトルの神殿と、そこで現在も進行している発掘の状況からこのテオティワカンという世界を俯瞰してみましょう。

このシウダデーラとケツァルコアトルの神殿を見学する事で、テオティワカンの往時の世界がきっと見えてきます。


【ケツァルパパトルの宮殿】

もともとは神殿が建っていた場所に増築して作られた宮殿。

建築年代は西暦450年〜500年の間。ただし、250年〜300年頃建設された神殿を土台にしてその上に建てられている。

建物の地下には人口のトンネルが掘られ、更に古い時代の神殿などが見学出来るように作られている。

★一般情報★

■この建造物の立地や意匠などから、重要な儀式を行った神殿や、上級司祭が生活していた宮殿とも考えられている。
■客室、パティオ、廊下、ロビーで構成されていることから、住居的な作りになっている。

■中央のパティオの柱に、ケツァル(鳥)とパパトル(蝶)が合体した聖獣が柱に描かれていることで有名。

■発掘された際に、この建造物は意図的に破壊され焼かれた事がわかっている。当事、内紛があったことが分かっており、その際に破壊されたか。。。(現在の姿は1962年の発掘時の復元の形である)

■中庭には水が張られ天体観測がされていたとも考えられている。

■ケツァルパパトルの像の目には黒曜石が埋め込まれている。黒曜石はテオティワカンの経済を支えた重要な交易品であったとも言われる。

■中庭天井の上についている突起物(バトルメント)には、テオティワカンの暦に関する絵文字が記されている。


■建設されたのは450年〜500年頃。250年〜300年ごろに建設された神殿の上を覆う形で建設されている。




【ケツァルパパトルの宮殿の神秘】

■降臨現象が起こるパティオの神秘。。。

秋分の日と春分の日の年に二階。ケツァルパパトルの宮殿にも降臨現象が起こります。

パティオの東側天井に取り付けられたバトルメント装飾の陰が、西側の壁に描かれたグレーカ文様(ナワトル語ではXicalcoliuhquiと言います)の階段状の模様にぴったりと一致して移動をします。

このパティオでは天体観測も行われていたといわれている、もう一つの根拠になっています。


■そもそも、ケツァルパパトルとは何なのか?!


そもそも、ケツァルパパトルとは何なのでしょうか?! その言葉を単純に解読すれば、ケツァル鳥と、パパトル(蝶々)の合体した神の化身という事になります。ナワトル語では、羽毛の生えた蝶々という意味や、神聖な蝶々と言った意味を持ちます。羽毛の生えたヘビは、ケツッアル・コアトルですが、羽毛の生えた蝶々は、ケツァル・パパトルという事になります。

神聖な鳥とされ、王様の王冠の飾りにも使われるケツァル鳥は実際に存在する鳥ですが、極彩色豊かな美しい鳥のため、メソアメリカでは昔から神聖視されてきました。その神聖な羽の生えたヘビや蝶や貝殻が、高貴な神の象徴として描かれていたと考えられています。


【ジャガーの宮殿】

ケツァルパパトルの宮殿の下に建設されているのがジャガーの宮殿です。ただし、ケツァルパパトルとジャガーの宮殿は建設された時代は同じとされています。

入り口の回廊の左右対称に漆喰の上に描かれた巻き貝を吹くジャガーが描かれています。

頭にはケツァル鳥の羽飾り、背中には貝殻が尾まで飾られています。左手で巻貝を持っていますが、この巻貝もまた、ケツァル鳥の羽で飾られています。


その巻貝の先から2つの花柄の文様が出ていますが、これが美しく鳴る音色をあらわしています。

三つ下がるしずくは水の恵みをあらわします。

上面には、雨の神であるトラロック神が星の中心で舌を出している姿を、そして、もう一つは、神聖なるケツァル鳥の羽飾りの王冠です。

巻貝は冬至を象徴するため、恐らくここでこうした太陽の一番短い時期に、活力を与える目的で音楽的な儀式を行っていたことを示していると考えられています。


【羽毛のある貝の神殿】

ジャガーの神殿の先(ケツァルパパトルの宮殿の地下)に、今度は古い時代に建設された羽毛のある貝の神殿があります。花の彫刻、羽毛のある貝の彫刻、そして、コンゴウインコの壁画などが彩色された綺麗な状態で残っています。

ここにある羽の生えた巻貝は、トランペットです。一つ前にジャガーが吹いていたケツァル鳥の羽を持つ巻貝、、、あれですね。そして、ここに描かれるコンゴウインコもまた、水の雫を口ばしから垂らしています。

また、口ばしからは三筋の水流が噴出し、三弁の花びらに注いでいます。

この壁画も、神殿の階段に対して左右対称に描かれていますので、この神殿が神聖であることを示しています。

ケツァル鳥だといわれることもありますが、実際にはコンゴウインコの姿をしています。


【死者の大通り】

幅40m、南北2kmのテオティワカン中央を走る大通り。

死者の大通りの名前の由来は、この地にやって来たアステカ人が、この大通りに面して立てられていた無数の建造物を神々の墓であると勘違いしたためと言われる。

実際は、神殿だったため、死者の道という名称は的を得ていない。

月の神殿からシウダデーラまで30mの高低差がある。

月の神殿の広場は、雨季になると水をたたえるプールとなり、この死者の道を流れてファレス川に注ぎ込む。雨季入りを示す壮大な装置であったというのが、杉山教授の説である。

実際に、各神殿の途中に排水溝とみられる場所がいくつも設けられている。

途中に、ジャガーの壁画や、農耕神殿があり、そこで壁画を見ることが出来ます。


第二章:テオティワカン遺跡の考古学的解析
【考古学的な見地から解析するテオティワカン文明】

言語学的にはトトナカ語、もしくは、ナワトル語を話す部族であったと考えられている。

広範囲に及ぶ影響力の過程では、武力による他民族への干渉や制圧が含まれている。例えば、コパン遺跡の初代王と言われる「ヤシュ・クック・モ」はテオティワカンから派遣された王であったという説が根強い。

描かれる姿がマヤではなく、身に付ける装身具もまたテオティワカン様式であること。発掘される埋葬品もまた、緑色黒曜石という当事では大変貴重な威信財で、テオティワカンの重要な交易品であったこと。この交易品はヤシュクックも以降は発掘される比率が著しく下がっていくことなど。

また、ティカルの石碑31にも外部からの侵略があったことを示す歴史が刻まれている。

こうした当事非常にマヤ地域では威信を放っていた大国にテオティワカンの政治的、軍事的な介入が認められることは、当事のテオティワカンが、積極的に領土と朝貢国を開拓していた事実を匂わせる。


【更に詳しいマヤ文明とテオティワカンとの関係とは。。。】


ワカという都市に378年1月9日にやって来た「シヤフ・カック」という謎の人物。その一週間後、1月16日には、なんと、マヤ世界最大の都市「ティカル」(当時はムタルと呼ばれていた)を制圧してしまいます。。。。

このシヤフカックなる人物は、西のカロムテ(王の意味)に派遣された将軍だという事がわかっており、その容姿や副葬品からテオティワカンから派遣された事が強く示唆されています。

さて、このシヤフカック、1月31日には、ヤシュヌンアイーン1世を擁立し、事実上ティカルを支配下におさめます。更に、378年度中には、ティカルに継ぐ二番目に巨大な都市であった東80kmにあるワシャクトゥンまで制圧、碑文に「シヤフカック現る」の文字を残します。更に更に、426年にはコパンまで制圧し、ヤシュクックモ王の擁立を助けたとまで言われています。

面白いのは、このシヤフカックのマヤ地域侵略を契機に、それまで地方の小都市国家群のあつまりでしかなかったマヤ文明が、飛躍的に、その痩せた土地であるにも関わらず世界的な文明としての繁栄への道を突き進んでいくという事実です。そもそも、彼が直接支配下に納めたマヤ都市が全てその後マヤ文明おける三大都市国家に発展しているという点は見逃せない事実です。

繰り返しますがシヤフカックは王ではなく、悪までテオティワカンの王に派遣された将軍だという事です。。。つまり、それほどに、テオティワカンの軍事力は強大であり、影響力があったことを示しています。同時期に、テオティワカンでは「アドサドプラットフォーム」がケツァルコアトルの神殿を覆い隠すように建設されている。。。

この時代、、、一体、どのような出来事が、テオティワカンで起こっていたのか。。。政変があったといわれるテオティワカンの王に派遣された将軍であるシヤフカックが、本国が荒れている中、これほどまでにマヤ地域への影響力を高める事が出来るのかという謎も未だ残されたままです。。

さて、その真相はいかに?!

是非、ご自身の目と身体で、感じ取っていただきたいと思います。


【テオティワカンクロスとソーラーディスクの関係】

月の神殿の前には「テオティワカンクロス」と言われる基台とは別の不思議な建造物が置かれています。月の神殿の上から眺めると8方向にマークが付けられたような不思議なクロスになっているのですが、テオティワカンではこれをテオティワカンクロスと呼んでいます。

このクロスサインは、メソアメリカ地域の様々な遺跡から発見されており、測量や方位の目印にしていたとも言われていますが、テオティワカンクロスについては、この場所の東西を示す方角は西暦150年の北回帰線の軸線にぴったりと一致している事がわかっており、更に、15度30分東に傾けられている南北の線は、そのまま後ろに聳え立つ「セロ・ゴルド山」の頂上を結ぶ直線にあわせてあります。

このセロゴルド山は火山ですので、地下活動が活発であり、溶岩の対流が時として大きな音を立てることがあり、これが地下に沈んだ太陽の活動と重ねられ、更に、地底にたたえられた水が生まれる場所として神聖な意味をもつ霊峰としてテオティワカンの人々に崇められた理由だといわれています。

雨季になるとこの場所から水がうまれテオティワカンの中央を走る死者の道を流れ、そして、サンファン川へと流れ込んでいく。このテオティワカンは全ての宇宙の真理の始まりの場所であり、宗教的なセンターとして繁栄をしたといわれるのも、納得の出来る話かと思います。

そんなテオティワカンの中でも最も重要な、地底の水(自然の摂理)と、太陽の通り道のクロスする場所が、このテオティワカンクロスの置かれた場所。そして、月の神殿が建設された西暦150年を示す世界の中心だったという事です。

このテオティワカンクロスが、どれほど重要な場所であったかは、このテオティワカンクロスをモチーフにしたソーラーディスクが、周辺の様々な都市から発見されている事からも容易に想像が出来ます。

更に、このソーラーディスクの広がりが、各文明をテオティワカ文明がつないでいたことを示す重要な証拠にもなっています。マヤ文明からトルテカ、更に、北米のメソアメリカ文明に含まれない地域にまでこのディスクが広がっている事実は、いかにテオティワカンが周辺文明に影響を及ぼしていたかを示しているのです。

このソーラーディスクは、現在、メキシコシティにある人類学博物館で見ることが出来ます。



【テオティワカン文明の謎】

テオティワカン文明には体系的な文字をもっていなかった?!

現在120近くの文字記号が見つかっている。木や草の名前、地名、神の名前、人物の名前、日付の記号などである。ただし、個人名と日付が一緒に記録された例はまだ見つかっていない

また、これらの記号は、図像により伝達された情報を補足しているが、その主要なテーマは戦争と犠牲が多い。

図像による視覚的伝達を好んだのかもしれない。当事サポテカ文明やマヤ文明との大きな違いは、こうした発達した文字体系の恩恵なしに、当事新大陸最大の都市文明を発展させたという部分が大いなる謎の一つになつている。

この為、当事のテオティワカンでの公用語が何語であったのかがわかっていない。トトナカやナワトル、マヤ、オトミ、ミヘ=ソケ語など、様々な言葉が交わされていたのは間違いないとは考えられている。

■最盛期には600もののピラミッドが立ち並ぶ巨大都市だった

■最盛期の人口は一体何人だったのか?!

謎の多いテオティワカンは、人口の数も謎。よく説明があるその人口は10万人から20万人と実に幅の多い数字になっています。

一体この数字がどこから算出されているのかと言うと、まず、テオティワカンは都市国家だった為、住居は全て平屋の集合住宅(マンションのようなもの)だった事が分かっています。一つの集合住宅には20程度の部屋があり、こうした建物がテオティワカン内に2000棟の遺構として発掘されています。

つまり、この集合住宅に何人の人が生活をしていたかで推測されているわけです。


一部屋当たり2名だとしたら、2名*20部屋*2000棟=80,000人

になりますし

一部屋当たり4名だとすれば、4名*20部屋*2000棟=160,000人

という事になるわけです。

もちろん、周辺部の人口や、他の建物に生活をしているエリート層といった数も含めて2万〜4万人を水増しした数字が、10万〜20万というアバウトな数字になっているわけです。

もしかすると、もっと少ないかもしれませんし、もっと多いかもしれませんね。



【テオティワカン文明の繁栄の謎】

■長距離交易を巡る議論/黒曜石交易による商業帝国論に対する疑問

よく、説明がされるテオティワカン文明の代表的な説の一つがある。

テオティワカンは、重要な交易品である黒曜石や緑色黒曜石の流通を掌握する事で繁栄を極めた。特に、紀元1世紀のシトラ火山の噴火によるクイクイルコの没落により人口も急増しその覇権力を強めた結果としての独占的な黒曜石を中心とする商業帝国を築き上げた。。。というもの。

しかしながら、近年では、テオティワカンにおける黒曜石石器の生産規模とテオティワカン経済に占める黒曜石交易の重要度自体が疑問視されている。

まず、発掘された黒曜石製品は、少数の専門職人により生産が可能であること。

テオティワカンが、国家として黒曜石石器等の生産を統制した明確な証拠が発見できていない事。

黒曜石の流通に支配者が関わっていた可能性は高いが、大部分の黒曜石は少数の集落遺構からしか発掘されていない。つまり、大掛かりな生産を行っていたという証拠がない

以前の製作工房数の推定は400であったが、現在は100に切り下げられ、更に少数であったとも指摘され始めている。

更に、輸出というよりも、テオティワカン都市内での消費の為の生産がメインであった可能性が高いことも指摘されている。

こうした事から、現在は、テオティワカン内における黒曜石の重要性が過大評価されてきた事、また、黒曜石により流通、社会、政治的な外部とのかかわりが再評価されつつある。

また、特殊な緑色黒曜石などは、支配者層の副葬品や神殿への供え物などの特殊な遺構からのみ発掘され絶対量が少ない

また、他の都市で発掘されるテオティワカン様式と呼ばれる土器のほとんどが、テオティワカンの土器をまねて地元で生産されたもので実際の輸入量は著しく少なかったことなども指摘されている。

こうした発掘から、テオティワカンの交易の規模は、支配者間の小規模なものであったと現在は考えられはじめている。

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